2008年01月08日

コラッ!千葉・稲毛界隈探訪〜91〜(No.625)

  【旧神谷伝兵衛稲毛別荘】その28

   そりあそび(ミッキー&ミニー)  お早よう茣蓙居ます.
早いですねぇ,もう平成弐拾年は今日で八日目で茣蓙居ます.
今日は神谷伝兵衛氏についての講釈をいたします.少々長ごう茣蓙居ますが附き合いくださいな.
神谷伝兵衛かみや でんべえ、神谷傳兵衛,安政3年2月11日(1856年3月17日)から大正11年(1922年)4月24日)氏は,三河国松木島村(現在の愛知県幡豆郡一色町)出身の実業家である.東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バ,茨城県牛久市ワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者である.
幼名は松太郎.後に婿養子の神谷(旧姓:小林)伝蔵が二世神谷伝兵衛を名乗る.安政3年2月11日(1856年3月17日),三河国松木島村の名主の六男として生まれた.父は兵助(ひょうすけ),母は石(いし).神谷家の先祖は武士江戸時代の初めに農家になったが、代々名主をつとめる家柄であった.
しかし父親の兵助は多趣味で家業を顧みることがなかったため家は貧しくなり,幼くして働きに出ることとなった.8歳で酒樽造りの弟子として働き,次に姉の嫁ぎ先の家で商業の見習をし,11歳の時には商人として独立した.綿の仲買人や雑貨の行商などを行っていたが11歳の時に失敗して全財産を失う.
1873年4月に兄の勧めもあり故郷を後にして,横浜にあったフランス人の経営するフレッレ商会酒類醸造場で働いた.ある時,病気で衰弱して命に関わるまでになったおりに主人の勧めた葡萄酒により体調を回復させてその滋養を知る.
1874年4月9日に父親の兵助が亡くなると神谷家の家督相続を行い,幼名の松太郎から伝兵衛と改名した.19歳で横浜の会社を辞めて,東京麻布(現・東京都港区麻布)の天野酒店に入り酒の引き売りを始る.寸暇を惜しんでの商売でできた蓄えを元手に1880年4月,東京浅草に酒の一杯売り家「みかはや銘酒店」(後の神谷バー)を開く.
輸入葡萄酒を原料として作った日本人が好む甘口の再製葡萄酒は評判を呼び,1885年に「蜂印葡萄酒」,1886年に「蜂印香竄葡萄酒」(はちじるしこうざんぶどうしゅ)の名前で売り出し、海外でも高い評価を受けた.
1898年に念願だった葡萄酒づくりに着手すべく茨城の原野を開墾し神谷葡萄園を開園,1903年に醸造場の神谷シャトー(牛久シャトー、現・シャトーカミヤ)を竣工させる.
1912年4月10日に浅草の店を改装し神谷バーを開業,同年5月30日の三河鉄道の創立に取締役として参加,1916年4月5日に同社社長に就任する.
1922年4月24日に66歳で亡くなる。遺体は希望通り神谷葡萄園の中の墓地に埋葬されたが,1978年東京都台東区谷中の天王寺墓地に移された.
茨城県牛久市のシャトーカミヤの中には神谷傳兵衛記念館があり,また神谷公園墓地跡には伝兵衛を讃える記念碑が残っている.

     〜〜ウィキベディアフリー百科事典より〜〜

『千葉・稲毛界隈探訪』はその90回目で茣蓙居ます.
そうして≪旧神谷伝兵衛稲毛別荘≫は歩き廻る事27回目となりましたで茣蓙居ます.


旧神谷伝兵衛稲毛別荘≫ホームページは下記です.

http://maskweb.jp/b_kamiyavilla_1_1.html 

また,千葉市作成の案内パンフレットと内容と同じホームページ〜〜
はこちらです.
http://www.city.chiba.jp/ward/inage/odkiv/odkiv1.html

これらのホームページと併せ旧神谷伝兵衛稲毛別荘を訪問されたおふた方のブログ住所を記載します.愚輩ブログには載っていない綺麗な写真が掲載されたりしておりますんで,改めてご覧ください.
http://blogs.yahoo.co.jp/chiba_leon/50417443.html

http://www.geocities.jp/chiba_bunka/kamiya.html

写真は昨年五月四日に撮ったものです.
写真()を含めた画像にマウスを合わせますと,何らかの文字が表示されます.
168a稲毛界隈・旧神谷伝兵衛稲毛別荘階段途中から見た入り口.jpg

posted by 日本憂國党・紋狗悠之輔 at 00:00| ウィーン 🌁| Comment(8) | 北総雑写 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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